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2019/01/17

震災の日に寄せて

おはようございます。校舎長の三宅です。

センター試験まであと2日。受験生の皆さんの緊張は否応なく高まっていることでしょうが、できるだけ「普段どおり」に、そしてこれまでの自分の頑張りを信じて「ポジティブ」に、試験に臨んでほしいと思います。

さて、今日は、阪神・淡路大震災から24年目の日です。
生徒たちはもとより、担任助手でさえもそれを知らない世代であるということに、我々オッサンは歳月の流れを実感せずにはおれませんが、大学生だったその当時、私はある塾でアルバイトの講師をしていて、「震災と受験」は、私の中で不可分のものになっています。

かつて、その時のことについて小文をしたためたことがあります。少し手を加えたものを、共有させてもらえたらと思います。ちょっと長いですが、よかったらお付き合いください。

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あの日。私は大学2回生だった。

2年前まであんなに必死に勉強というものをしていたのは幻だったのかと思えるくらい「学生の本分」を放棄していた私は、しかし学年末を控えて流石に尻に火が点き、ワープロに向かって課題と格闘していた。「国語科教育法」という科目の、授業指導案を作成せよというお題で、高校の古典で『大和物語』の〈生田川伝説〉を扱った。2人の男に誠実でありたいと思った女が、それ故に2人の男を巻き込んで悲劇の結末を迎える。これに、「誠実でありたい。そんなねがいを どこから手にいれた。/それは すでに 欺くことでしかないのに。」と詠う、吉野弘の『雪の日に』という詩を重ね合わせ、作品の主題を考えるという授業展開である。我ながら会心の出来で、夜を徹してそれを仕上げ、満悦しながらまどろんでいた。このとき、5時40分である。

テレビは6チャンネル、朝日放送をつけていた。フィラーが終わり、放送開始のアナウンスが流れる。5時45分。最初の番組である『Oh!天気』が始まる。司会のアナウンサーの挨拶があり、出演者の紹介が続く。中途半端な時間に課題が完成してしまい、2時間だけでも眠るべきか、起きられなくなるから耐えるべきか、そんなことを逡巡しながらテレビの画面を見るともなく見ていた。そのうち、地鳴りのような異様な音が聞こえてくる。「?」と思った瞬間、激しく揺さぶられ、棚から次々に物が落ちてきた。テレビからは出演者の悲鳴が響き、と同時に停電して、闇に包まれた。

実際にはどれくらいの時間だったのか分からないが、とんでもなく長い時間に感じられた。このままいつまでも揺れ続け、この世のものが全て崩壊して、自分も死んでしまうんやろなあ、とぼんやり考えることができるくらい、長い時間だった。

徹夜で仕上げた課題だったが、結局この日、大学は全学部休講となったので、自宅に居ることにした。夜が明けて、テレビで神戸の街が映し出されるのを見て、怖くて外に出ることができなくなったというのが正しい。熱を出しても、嘔吐で苦しんでも、結石で悶絶してもそうは思わなかったのだが、この日初めて、一人暮らしであることを心底不安に感じた。そのうち、アルバイト先のマネージャーから電話がかかってきて、「ウチのスタッフで君が唯一の大阪府民で、一番電話がつながりやすいから、ごめんやけど家に居てもらって、諸々の連絡の窓口になってくれへんかな」と言われた。わかりました、と答えた。当時、私は西宮北口にあった、ある大手進学塾の講師のアルバイトをやっていた。マネージャーを含めた他のスタッフは全員、兵庫県民だったが、本社は大阪市内にあるから、私なら本社との連絡がつきやすいだろうとのことだった。

阪急電車が西宮北口までは復旧した翌日、本社からの指示で、校舎に向かった。塚口を過ぎた辺りから建物の崩壊が見え始め、西宮北口駅は壁のタイルが軒並み剥がれ落ちていたが、駅を出て、“塾銀座”である北口を出ると、目に飛び込んできた光景は地獄絵図そのもので、絶句するしかなかった。私の勤務先のビルは崩壊を免れたが、鍵を開けて中に入ると、机や椅子は方々へ飛んでいき、教材や書類のファイルはそこら中に散乱している。コピー機のガラス面にテレビが突き刺さっているのを見たときは気を失いそうになってしまった。

数日後、集まれるスタッフだけが集まり、本社からは統括部長も来られて、今後の対応や対策について指示を受けた。「ここに関わる人が生きているかどうか」から始まった。電話はほぼつながらないから、ゴーストタウンの中、手分けして約120人の生徒の自宅一軒一軒を訪ね、家がなくなっていたら避難所まで巡った。幸い、命を落とした生徒はウチにはいなかったが、行く先々で生徒たちが怯える姿を見るのは辛かった。毎日、川まで行って水汲みもやった。食料や飲み物の調達は大阪市内でもままならないから、JR京都線を1駅ずつ降りては店に飛び込み、やっと必要なものを確保できたのは京都の西大路だった。

昼間に特別な時間割を組んで出勤できる講師だけで授業を回し、受験学年を最優先で指導を行った。避難所から通ってくれる生徒たちの表情にも、笑顔が少し戻っていた。それが、私たちの使命感を強くした。限られたスタッフだけでの授業は、決して十分な内容ではなかったと思う。それでも、生徒たちは全員が、志望校の合格を勝ち取ってくれた。心から喜びを分かち合った。そして、志を強く持った人は、逆境にあってもそれを乗り越えることができるのだと知った。

それらのことは当時輪の広がったボランティアなどではなく、「仕事だから」やったのだ。確かに使命感を持って取り組んだが、自分の行動を美談として語ろうなどとはつゆも思わないし、そういう発想すらない。あるのは「大変だった」という記憶である。ここでのバイト仲間は互いを「戦友」と呼び合っていた。その「戦友」たちは、高がバイトということを超えた「本気」で連帯していた。その全員が、今どこでどうしているのかさえも知らない。でも、そうしたいろんな思い出が今、まざまざと蘇ってくる。

今年も、5時半に起床して、46分には黙祷を捧げた。私如きの祈りが誰の御霊を鎮める訳でもないし、何年も経てば、それを怠ってしまった年もある。テレビだって、扱いは随分軽いものになってきた。「あの日の記憶は風化させてはならない」と人々は言う。でも、忘れてしまいたい記憶を持つ人だっているだろう。被災の当事者でもない人の感傷ほど勝手で無責任なものはないと思うし、こうして当時の思い出を綴ること自体がどうかとも思うが、自分の中の心の整理として、またいろんなことの原点回帰として、今後も静かに、「1月17日の内省」を続けていきたいと思う。

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平野校では、今日の20時から、『センター試験直前激励会』を実施します。

何を話すかは今考えているところですが、「志を強く持った人は、逆境にあってもそれを乗り越えることができる」が、私の指導の原点ですから、やはり受験生の皆さんには、自らの志=「志望校」への思いをもう一度しっかり確かめて、それを胸に、存分に実力を発揮してほしい、そんな願いを伝えられたらと思っています。

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